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東京新聞より

広島原爆の日 福島から避難 国民投票呼び掛け

2012年8月7日 07時00分

原爆ドームの前で原発国民投票を求めて署名活動をする衣山弘人さん=6日、広島市で(久野功撮影)

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 原爆投下から六十七年の「原爆の日」を迎えた広島。六日朝、原爆ドーム前では、原発の賛否を問う国民投票実現に署名を呼び掛ける衣山(きぬやま) 弘人さん(54)の姿があった。東京電力福島第一原発事故で、福島県南相馬市から広島市内に避難した。「核」により日常を突然奪われた痛みを共有するこの 場所に立ち続け、集めた署名の数は一万五千余に上る。 (森本智之)

 「福島からの避難者ですが」。真っ黒に日焼けした顔で、平和記念式典の参列者や観光客らに話しかける。「今までは政治に任せすぎなところがあった。これからは立ち止まってわれわれの頭で考えないと」。周囲ではセミの声とともに、脱原発を求める市民団体の掛け声が響く。

  福島第一原発から十八キロ北で、雑貨販売を営んでいた。原発事故後、妻と小学生の二人の息子、母とともに山形、新潟、福井などを転々とし、二週間後に広島 市へたどり着いた。「広島なら放射能のことで子どもがいじめられることはない」との思いもあった。署名活動を始めたのは、昨年の平和記念式典に出席したこ とがきっかけだった。

 今もまだ心身の傷に苦しみながら平和を訴え続ける被爆者たち。政治に振り回され、ある日突然人生を奪われた無念さは自分と同じ、と感じた。

 九月、初めてドームの前に立った。観光客の群れからぽつんと離れ、東北なまりの呼び掛けに足を止める人はなかった。

 「そんなんじゃダメよ。自分をさらけ出さんと誰も立ち止まっちゃくれんよ」。周辺でボランティアガイドを続ける三登(みと)浩成さん(66)から声を掛けられた。翌日、手作りの「福島県南相馬市 衣山弘人」と書いた名札を手渡された。

 三登さんは母親の胎内で被爆した。父と母は被爆体験に苦しみ、自ら語ることはしなかった。だから伝えることは自分の責任だと思っている。観光客に自分の被爆者手帳を見せ、両親の話をする。案内した人は八年で十六万人を超えた。

 ドームの前で、衣山さんと三登さんは一緒に立つようになった。「自分にとっては毎日が八月六日」と粘り強く核廃絶を訴える三登さんの姿が衣山さんの心を強くした。

 この間、東京都や大阪市でたくさんの署名が集まりながら、議会はあっさり住民投票条例案を否決。政府も、事故の検証が不十分なのに再稼働へとかじを切った。政治への圧倒的な不信感の中、国民投票しかないとの思いは強くなる一方だ。

 広島で迎える二度目の原爆の日。「国民投票がすぐに実現しなくてもあきらめない。とことん、じっくり向き合う」

<原 発国民投票> 現在の法律では国民投票は憲法改正を国会が提案した時に限られる。市民グループ「みんなで決めよう『原発』国民投票」(事務局・東京)は、 これまでに約15万人弱の署名を集め、来年の「3・11」までの国民投票法の整備と早期の投票実現を国に求めている。地方自治体に対しても住民投票条例制 定を求めて運動しており、東京都で約32万人、大阪市で約5万5000人の署名を集めたがいずれも議会で否決された。

(東京新聞)

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【2012/08/07 11:02 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0)
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